僕が思う自然とは。
自然回帰、自然学校、自然栽培。
世の中には「自然」という言葉があふれている。でも、自然とは一体何なのだろう。
そんなことを時々考えるので、今日は思考の整理も兼ねて書いてみたい。
僕は九州の農村で生まれた。
子供の頃はドングリを拾うのが好きだった。森の腐葉土のベッドに飛び込み夢中になってポケットいっぱいに詰め込んで持ち帰り、大切に集めていた記憶がある。
その後、静岡の小さな漁村で育った。
家の裏には森があり、山へ向かって歩けば森は少しずつ深くなり、やがて奥山へと続いていく。そしてその先は富士の樹海に繋がっていた。
子供の頃の僕には、深い森という存在は怖かったのかもしれない。
大人になった今、僕は木に登る仕事をしている。
自然とは何かを考えるようになったのも、もしかしたらあの頃から続く好奇心の延長線上にあるのかも。
自然の定義は、立っている場所によって大きく変わる。
たとえばニューヨークや東京の中心部で暮らす人にとっては、公園や街路樹も十分に自然だろう。
一方で、青森のマタギやアフリカのマサイ族にとって自然はもっと大きな存在だ。生活の糧を与え、ときには命を奪う、畏敬すべき領域としてそこにある。
僕は自然には階層があるように感じている。
人が整備した公園や里山も自然だ。しかし、その先には人の管理を離れた森があり、さらにその奥には人が容易に踏み込めない領域がある。
深海、高山、極地。
そこは生き物たちでさえ生存の限界に挑む世界であり、多くの探検家や冒険家が魅了されてきたフィールドでもある。
では、僕が思う自然とは何だろう。
それは、人間の影響が限りなく小さい場所だ。と言うよりも、人間を拒否する場所。
人が住み、耕し、管理する環境ももちろん大切だ。しかし僕は、そのさらに奥にある「人間がいなくても成立している世界」に強く惹かれる。
そんなことを考えていると、僕の住む天草のことを思い出す。
天草には御所浦という島があり、約9500万年前の恐竜の化石が数多く見つかっている。
その頃、この地球に人間はいなかった。
森も海も、そこに生きる生物たちも、今とはまったく違う姿をしていたはずだ。
考えてみれば、人類の歴史はせいぜい数十万年。
46億年という地球の歴史から見れば、ほんの一瞬に過ぎない。
僕たちが「自然」と呼んでいるものも、どれだけ表層の世界なんだろう。
だからこそ気になるんだ。
人類が現れる以前から続いてきた自然の痕跡は、今の地球にどれだけ残っているのだろう。
そして、自分たちの暮らす場所の近くに、その証を見ることはできるのだろうか。
次の記事では、そんな「野生の記憶」を今も匂わせる場所について、一緒に探してみたいと思う。
人類未踏の地へ行くだけが冒険ではない。
知りたいことを納得いくまで純粋に追い続けること。好奇心という情熱を燃料に身体で感じ、考え、気付きを得る事。
その積み重ねは、距離や時代を超えて未知へ近づく旅だ。
僕はそれも時空を超える大きな冒険だと思う。